朱里日記

❁小さな自叙伝からはじまる魂の冒険記❁

Aさん



Aさんは魂の自分を生き始めたわたしが、はじめて出会った深い縁ある人だった。 

宇多田ヒカルが初恋という曲を作った背景を語る番組を以前観た際、このようなことを語っていた。

''初恋とは初めて人として深く関係を持った相手のこと すなわち両親のことだ、''と。

わたしはこれを見た時に、Aさんと私のつながりについて、やっと腑に落ちた思いがした。  
生まれ変わったわたしにとっての初恋の相手はAさんだったのだ 。

何度も言うが、わたしは本当に言葉では説明するのも憚られるが、真剣にソウルメイトは存在すると思っているから、その体で話をさせていただきたい 。

Aさんと初めて会った時の印象は、謙虚で素朴な人だった。 イメージカラーは緑。 Aさんの背後には大きな山や自然が広がっていて、休憩の際、ビールなどのドリンクを入れて運ぶケースをひっくり返して腰掛けていると、そのケースは切り株に見えたりした。その印象が後に裏だったとわかり、表を知ることとなる。 気分屋でわがままで刺激を求め続ける永遠の少年、無邪気ではなく達観している少年。
カラーは藍色。 剣道の袴のような。  静と動 柔と剛  盾と矛など、対になるもの 。

Aさんは食材を本当に大事に扱った。 食材を触る手つきからほかの人のそれとはまるで違い、その姿からは食物に対する深い畏敬の念が伝わってきた。 豚肉を処理しながら屠殺のプロの話をするAさんはものすごくイキイキしていた。Aさんに手際よくそうじされてく豚肉を見ながら、こんな感想おかしいかも知れないけど、この豚は自分を大切に扱かってくれるこの人に触ってもらえてしあわせだな、そんなことを思ったりした。

Aさんは若かりし頃、やはり料理とは別の夢を持っていて、それを叶えるために奔走した。 けれど、思ったようにはうまくいかず、気づいたら料理の道へと自然の流れで行き着いた。そしてそこには、縁ある人たちとの出会いが待っていて、ここへもその繋がりで来たことを後に話してくれた。

わたしはレセプションの仕事など片手間に、Aさんの料理する姿を来る日も来る日も神経を集中させて見つめ続けた。 観察というより、見つめていた、といった方がその時の心情を表すのに近い気がする。 
Aさんはどんなに忙しい時でも自分を制御して、動きに強弱をつけて立ち振舞っていた。 明らかに意識してそれをしているように私の目には写った(※ここについては補足があり、キッチンメンバーで話してる会話を盗み聞きしたところ、Aさんが意識していた動きは北斗の拳のトキだったということがわかりました笑)
意識せずとも長年の経験の積み重ねにより身体で覚えた全てがある筈なのに、その経験に決して甘んじることなく、常に新たに進化することに挑んでいるようだった。

Aさんの作る料理は基本、季節の食材を使った一見シンプルな構成なのだが、食材に対する愛情のスパイスを入れることは欠かさなかった。 どのメニューも最後の仕上げに塩を振ることが多かったのだが、Aさんはいい塩梅を何より大事にしていたように思う。懇親の一撃ならぬ、懇親の一振だけは見逃すまいと、食い入るようにキッチンを凝視していた。 そして、Aさんのやる気のなさそうな''アップ''という言葉と共に出てくる料理を見て、わたしは毎度感じ入ってしまったのだ。

Aさんが料理する姿を見つめ続け気づいたことがある。 彼は、確かにそこで腕を奮ってひと皿の料理を作り上げていくのだが、時折、気配がふっと消えてしまうことがあった。 主役である料理を前に彼は脇役に徹することで、気配さえも完全に消し去ってしまうのだ。 それなのに、何故か、アップされた料理の中にはしっかりとAさんが存在していた。
どの料理からも食べる人を想って作ったことがわかるAさんの波動が伝わってきた。

ただのAさんマニアなんじゃないですか?そんな声が聞こえてこなくもないが、マニアでもなんでもいいから、まだ語りたい。

ある日の営業日のこと、カウンターに女性がひとりで来店され、バーニャカウダをオーダーされた。 バーニャカウダはガラスの器に細かい氷を敷き詰め、そこにその日の新鮮野菜数種を突き立てるようなカタチで盛り付けるのだが、いちばん作る人のセンスがわかりやすく出るメニューだった。 普段サラダ場をやることはほぼないAさんがめずらしくその日は担当だった。アップされたバーニャカウダは色味を最小限に抑え、緑を基調にした同系色で統一されており、Aさんのセンスの良さが際立つ一品に仕上がっていた。 わたしは自分の立つすぐ後ろのその女性の席にサラダを運び、さり気なく食べてる様子を観察していた。 すると、またあるイメージが頭に浮かんできたのだ。
それは、緑の畑といった風なバーニャカウダの野菜のなかをピーターラビットがかくれんぼして遊んでる情景だった。 わたしは次の日のミーティングの際、このエピソードをみんなの前で披露した。 Yちゃんは聞くなり『えぇーっっ!!』という、あの店全体によく通るナイスな声で叫んだ。 Aさんは笑ってくれたんじゃないかな?そこはあまり覚えていない。

Aさんはお客様がどんな表情で料理を召し上がっていたかを、次の日のミーティングで話すように、と、ウェイターをやった人間にいつも口うるさく言っていた。 それは例えばこちらが『お味はいかがでしょうか?』などと聞いても、お客様はさしずめ『おいしいです。』としか言わないことを分かっていたからだ。言葉はいくらでも嘘をつけるが、表情はごまかせないことを知っていたから。 
わたしはその通りだな、と思った。 

Aさんは、料理長という立場にも関わらず、人手が足りない時などは進んで洗い場にも入ったし、グリストという下水の掃除の仕事もやったし、ゴミ捨てにも行った。 わたしは、誰かに教えられたわけではなかったけど、それをAさんにやらせるのはおかしいと強く思ったし、やらせたくなかった。 それらは、わたしが全部やりたいと思った。 何もできないわたしの仕事だと思った。 ただ、何をやってもAさんの仕事は丁寧で美しく、わたしは太刀打ちできなかった。それが惨めで情けなくそれでも前を向くしかないということだけは本能的に理解した。 その気持ちを過去にAさんが味わっていることが伺い知れたからだと思う。 それからは、いまの自分にできる精一杯の仕事をしようと心に誓った。 

〝何かを教わる〟ということは、教わる側の姿勢によるところが大きいと思う。 目で盗むという表現があるが、目で感じ取るとも言い換えられるかも知れない。凄い人の凄味は、その人の佇まいに顕れる。 わたしは、この人は生まれ変わったわたしのお父さんだと感じていたのかもしれない。 実の父から学べなかった分も、この人から多くのことを学びたいと日々切に願っていた。

けれど、どんな縁も諸行無常の前に儚く過ぎ去る 。

このときAさんと出会えたことは、わたしの人生において、決して欠かすことできない必然であり、本来の自分を生き始めたわたしへの神様からの贈り物だったと言えるだろう。 たった7か月のことであったが、私は大事な幼少期をお父さんの背中から学ぶことができた 。

一緒にごみ捨てに行ってくれた思い出も、散々怖い話を聞かされた後に地下の更衣室に一人で行かされそうになったことも、あの狭い縦長のキッチン内を超ピーク時に空気の読めないわたしがクソ重いゴミ袋を持って横切ろうとした時『持ててねーじゃん!!』と言って、フライパン片手に片手でゴミを運んでくれたことも、生まれ育った長野の家の近くでは蛍がみれたことを教えてくれたことも、新作の料理を、皿洗いしてるわたしの口に突っ込んでヤケドさせられたことも、Aさんオリジナルの海老トーストのレシピをお客様に聞かれ、キッチンに走って聞きに行ったのに『スーパーの海老を買ってくれば作れます』と無表情に言われたことも、あの、パッフェルベルのカノンが聞こえたいわしのサラダの試食の感想をミーティングでみんなに伝える時に、味ではなく、見せてもらった塩〆の行程を、こと細かに説明してしまったときの、最高の笑顔も、長い労働時間に慣れない頃、営業終了間近に思わず「Aさん、眠いです」と本音を漏らしまったとき『眠いの~?!(なんてこと言い出すんだ、こいつは)もうちょっとだから頑張って!!』と言った時の、笑いたいけど、笑っちゃダメなとこだから笑えないあの微妙な表情も、最後のゴミ捨てに一緒に行った時に、「Aさんのような凄い料理人に出会えたことは私の誇りです!」というようなニュアンスの感謝の気持ちを伝えたとき『俺なんかよりよっぽど凄い人いくらでもいるよ』と天の邪鬼なAさんらしい言葉が返ってきたことに「わたしがこの世界で出会ったのはAさんだから、わたしの世界ではいちばん凄いカッコいい人なんです!」というなんの捻りもないストレートすぎる言葉を返したとき『…それはどうも』と言ったはにかんだ彼の表情を、わたしはきっといつか忘れてしまうだろうけど、忘れたくないと思う。 

本当に忘れたくないと、いま、思っている。 

Aさんから離れ、約1年半後、なんとわたしはこの店に自ら志願し、キッチンメンバーとして戻ってきたのだが、それはおまけのおまけのお話。  あの半年間はAさんへの恩返しの時間だったのだと思う。  わたしは料理人にはなれなかったけど、大好きな人が作ったものを心の底からおいしくいただくことのできる人間であろうと固く胸に誓った。

そして、Aさんがわたしへ贈ってくれた
『これからはなににも縛られず自由に生きていってください。』というメッセージを信念に、自分の道を歩んでいきたいと思う。


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あの日のイワシのサラダ🥗