父のことを書いたので、なんとなく母のことも。
なんとなく、というのは、わたしはもう母について特に書きたいことはないのである。
ちなみに、母は今年で77歳 喜寿を迎える。
五体満足で今日も元気に健在している。
最近は、ガンで闘病中のとなりの奥さんにお得意の手料理(味濃い目)を食べさせて、抗ガン剤のせいで、食べることが苦しく辛かった人においしいものが食べれる喜びを与え、ありがたがられているようで、なんだかんだお節介が人に感謝され、徳の高い人だなぁ〜と感心している。
きっとあの人は、ある日突然、気持ちよくこの世を去れるタイプだと思う。
だって、そういう生き方をしているから。
わたしもきっと母が死んでしまってもその時一瞬悲しんでも、引きずることは無いと思う。
なぜなら、彼女は、今日も明日も明るく元気な気持ちで生きていくことを知っているから。
20代、30代の頃は、なぜこの人からわたしは生まれてきたのだろう?
なんて、誰しもが一度は想いを巡らせるであろうことを考えたこともある。 当たり前だが、そんなこと考えたところで答えなど見つからない。 だからわたしは、単純にこの人から生まれたことに深い意味はないのだとその時は結論づけた。
10代、小学5.6年生の頃、わたしは担任の先生から大いに嫌われ、敵対視されていた時期があった。
気がついたら、その先生だけにとどまらず、かなりの数の先生から目の敵にされて、正直その頃は毎日が生き地獄で苦しかった。
その状況を招いたきっかけなど、ほんとに取るに足らない些細なことで、そんなことが原因であの年頃のこども相手に、どんだけ人間的に未熟な大人が多かったことか、さらには、どんだけ下らない人間に教育されて育ったことかと、がっかりするしかないが、唯一味方として心の支えになってくれることを声なき声で望んだ母は、全くわたしの心に寄り添うこともなく、淡々としていた。
その事実は、わたしをただひたすらに孤独にした。
恨むことも、文句を言うこともしなかった代わりに、心は閉ざしていった気がする。
多くの人がそうであるように、わたしも、どんなに困ったときも誰かに助けてもらうことはできない、という経験をその時にしたのだと思う。
ただ、この事実を今の自分が大きな視点から眺めた時にわかったことがある。
これは結局わたしの甘えだったのだと。
問題は、困ったときに助けを求める声をあげることを学べなかったこと。
幼少期にそれを学べてさえいれば、恐らくもっと簡単に乗り越えることができていたのだと思う。(思いたい)
じゃあ、それを学べなかったのならどうしたらよかったのか?
勇気を出して思いを口に出せばよかったのだ。
怒りをバネに、自らの力で、閉じた殻を破る蹴りを入れてやればよかったのだ。
『 でも、それができなかったのです。
きっと、あなたもわたしも。
心が弱かったのです。
ただ、それだけのこと。 』
優しい天使の声が聞こえる。
わたしたちは被害者だけど、甘えは自分の責任として引き受けなくてはいけない。
それが、今も自分が生きていることに対する命への責任だから。
わたしは、自分で、この母親を選んで生まれてきた。自分の人生に起きた良いことも悪いことも、全てを自分が経験することを決めて生まれてきた 。
いま、はっきりとそう言える。
そう言えるようになってはじめて、わたしは生きていることの喜びを心の底からあじわえるようになりました。
自分の身に起きた不幸の度合いは、それぞれまったく違うと思うけれど、鳥で例えるなら、あのまだ目も見えない雛が卵の殻を破って自力で世界に出てくるように、殻は内側からしか破れないということ。
その力がある人間がいまも生き残っているのだということ。
ほんとうは誰しもが、その力を秘めているのだと思う。
死にたくなるほど苦しい日々のなかでも、簡単に死ねないのなら、どう生きたいか、
それを自分が決めるしかない。
ここに辿り着くと、どう考えても、このシナリオを決めて生まれてきたとしか思えなくなる。
正しいことを教えられたかったわけではないのだ。
何が真実か、自分の体験を通して、知りたかっただけなのだ。
そのために全てがあったんだ。
なんか、悟ったかのような言い切りようだが、あくまでも、現時点での答えであって、ひとつ大きな山の頂に到達しても、下山の行程もあれば、また次のさらに大きな山が待っているのが人生でしょう。
とりあえず、地味な下山の道のりを、まわりに咲く綺麗な花々を眺めながらのんびりと楽しみたい。
…やっぱあれ違くない?なんて、どこからともなくやってくる反省の声には耳を塞いで、青い空を見上げて、おいしい空気を胸いっぱいに吸い込んで、進みたい。
母、、ほぼ関係なく終わります笑
また新たな山を目指して🏔