朱里日記

❁小さな自叙伝からはじまる魂の冒険記❁

終わり

このブログを始めてから先日一年が経ちました。  


自分が一体、どんな目的をもって、今生この時代に、この地球という惑星に、この国に、この姿形で生まれたのかを、ただただ知りたく、思い出したく、日記という形式で続けて参りました。


正直わたしは社会不適合者寄りの人間です。職業という肩書きは無く、何者とも名乗れない自分という存在が、日々生きている時間の流れの中、思ったことをシェアすることで、もしかしたら、似たような思いを抱きながら生きている人たちの何か僅かでもお役に立てるかもしれない。などという、社会に適合できない自分をどうにか肯定したいという気持ちも含め、淡い期待にも似た感情を持ちながら続けてきました。


自分がただ生きていることが、誰かのためになるとしたら、それこそが自分のよろこびだと信じて疑わずに邁進しました。実際何の役にも立てなかったかもしれないけれど、とにかく今日までのわたしを生きた証にはなりました。


何度も何度もわかった気になっては、それは本当の気持ちではなく、天国と地獄を行ったり来たりする日々の間で学んだことは微々たるものでした。なにかを目指すことが本当の目的ではないのに、気がつくと、いつも遠い彼方を見ている自分がいました。

今日そんな今までの自分とさよならすることを決めました。つい先程、突然思い立ちました。

これを続けたいと自然に思わなくなったからです。


ここ数日の間に、とても大事な何かをやり遂げて、まっさらになったつもりでしたが、どういう訳か、今のわたしの心はとてもさみしく、ひとりぼっちで、どこにも辿り着けないのではないか、という不安でいっぱいです。

午前中はそれとは真逆で、これからを生きる希望に満ち溢れていました。

どちらがいまの自分の本心に近いのだろう?と深く感じてみたとき、圧倒的に寂しさが大きいことがわかりました。


いま私は、何度も何度も転んでは起き上がり、這い上がってきた自分は愛おしく、頼もしく、よく頑張ってきたじゃない。と、自分に素直に言ってあげられる。

結局は、誰かのためになろうと、ならなかろうと、自分の心を支えるために続けてきた日記だったのだなぁ〜と思います。

この寂しさと共に、これからも命が続く限り生きていくだけなのだと思います。


いまこれを読んでくれてるあなたへ

ありがとうございます。

文章を通してだけでも(実際会ったことがある人も)あなたに出会えたことは、これからも続くわたしの冒険の力になると思います。願わくば、わたしもあなたにとって、そのような力になれたらやっぱりちょっと嬉しく思います。


終わりは新たな始まりでもあります。


この切なさを振り切って、いや、味わいきって、また一歩を踏み出していきたいと思います。


生きていてください。

共に生きていきましょう。



2020.7.1   朱里






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白龍



ネバーエンド



静かに目を閉じて






ほんとうの望みを






想像していたら






そこから






優しく身体が離れて






心が自由に






奇跡の世界へと






飛んでゆき






同じような心に






いっぱい出会ったよ






君はその時そこには






いなかったけど






白い花の香が






風にのって






流れてきて






君がいつか






そこにいたことを






しっかりと感じた







また会えなくても






しあわせだよ






あのとき君と






笑い合えたから






その記憶だけは






神さまに






守り続けてもらうから






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あの日の空にみる



休止符

うたた寝をしながら夢をみていた。

最近は不思議なくらい、みた夢を目覚めたと同時にすぐ忘れていく。何も残らない。それはそれでいいのだろう。


ついに、セルフカットした髪の纏まらなさに耐えかねて、美容院へ行った。美容院選びに時間をかけたくないため、家から近いところ一択で決める。徒歩1分。とにかく、この髪型によるストレスが半端なかったため、一刻も早く脱出したかった。美容師のお兄さんは、独立間近のそこそこ熟練の人で、とくに可もなく不可もなく。わたしの頭を触って『絶壁ですね。』と、ごく自然に言うところが、わりと好感を持てた。絶壁をカバーする感じにやってくれると言う。ショートを勧められたが、いまの私はロングを目指す気分になっているため、サクッとこちらの要望を伝えたら、今回はショートはやめて、うまくやってくれるという話になる。お任せした。

出来上がった髪型は、どこから見てもショートだった。心の中でちょっと笑う。『金髪とかも似合うと思いますよ!』なんて言われて、気を良くした。その内やりそうな気がしている。

物事をシンプルにしていくと、うまくまわるものなんだなぁ〜と、今回学んだ。

今までは、美容院や美容師さんにこだわって時間をかけた時ほど、期待値も上がり、最終的に色んな意味でトントンか、もしくは若干マイナスに着地することも多かったが、今回のように、近いだけで決めたら、特になんの期待も生まれず、すっきりした気持ちだけが残ってよかった。わたしがまた来なさそうだな、と察してか、メンバーズカードも『要らないですかね?』って、向こうから言ってくれて嬉しかった。だって要らないから。でも、こういう対応をしてくれたことにいい印象が残ったため、''また行くかもな、''とも思っている。この美容師さんと、自分の心の動きを参考に、生かせることがある気がしている。


これから人生道場、土曜日の戦いが始まる。

一刀入魂


来る7月を目前に、調整中



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仲良し

行い

昨朝は、ゴミ捨てに行き忘れてしまった反省から一日をスタートした。

 

共同生活において、自分がやらなかったのにできていることは、自分以外の人が代わりにやってくれたということなので、常にそのことに対する感謝の気持ちを忘れないようにいようと、心がけている。できれば言葉できちんと想いを伝えたいが、できなかった時は胸のなかで手を合わせる。それもできなかった時は、次回に反省を生かそうと思っている。それもできなかった時は、、、

キリがないので、切り替える。

ゴミ捨てに行ってもらった代わりに、冷蔵庫と戸棚の整理整頓をした。今の自分にできることをやる。言葉や態度ではごまかせることが多いので、実際にやることが一番誠実だと思う。

いろいろな人がいて、いろいろな考えがあり、いろいろな生活リズムがある。 他者に焦点があってしまうと、途端に自分が薄れる。周りに影響されることを自分に許さない芯の強さが元々備わっていることを忘れては、幻想に振り回され、目に見えないところで争いは始まる。

元からあるのだ。強さは顔を出したり、隠れたりしているだけで、本当は最初からある。

無い振りをして、弱さで人を動かそうとするダサさは、空気で見抜ける。正に、人の振り見て我が振り見直せだ。わたしは、ダサい人間に成り下がりたくない。ダサい女にも成り下がりたくない。もしも、ダサいことをしてしまったら、絶対にその自分を見て見ぬ振りせずに、制裁を下す。心は騙せない。自分だけは自分を見逃さない。他者の行いをジャッジなどする必要はない。なぜなら、他者を変えることはできないからだ。

しかし、他者の問題を、自分の問題として考えてみることはできる。''もしも、自分だったら、、''その視点から自分の行いを見つめ直す。そこから気づくことは多い。

 

話はまったく変わるが、最近、共同生活をしている人が、ちょいちょい占星術のエレメントの話を会話に挟んでくるため、自分のエレメントをきちんと把握しようと調べてみた。

わたしの太陽星座は天秤座なので属性は、風になるが、もうすこし詳しくホロスコープを見てみると、天体の属性は、風4・水3・火3 土0だった。土以外は、ほぼバランス良く散らばっている。わたしの中にはいろんな要素があるということのようだ。やっぱりバランスの人間なんだなぁ〜。

火の人のように、わかりやすく''これが自分!''という感じは全くなく、かと言って、ふわふわ漂ってるというのとも違く、その時々で、風のように吹き抜ける自分、火の熱さが滾る自分、水のように感情に溢れる自分、日によって顔を出す自分の振り幅が大きい。どの自分が好きか考えてみたが、どの自分も好きだな、と思った。

ざっくり纏めると、風のわたしの表現は料理で、火のわたしの表現は会話で、水のわたしの表現は手紙や詩かな、と、思った。もっといろいろある気がするが、大きな括りとしてはそんな感じだ。

思いがけず楽しかった。なので、ほかの人のそれも知りたい。今度みんなと話してみようと思う。

 

 

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眼差し

 

記念日

今日は、夏至であり、新月であり、日食であり、そして、わたしのブログ開設一周年記念日である。


おめでとう。じぶん。

大した成長もしてないが、一年間ひとつのことを続けたことは、素直に褒めたいと思う。自己満足に終わってる可能性は否定できないが、自己満足に慣れる訓練はだいぶ積めたと思うし、日々移り変わる心模様を包み隠すことなく開示しつづけたことは、わたしを生きる力になった。


今日は、あるイベントを通じ、本当に思っていることを言葉で人に伝えることの難さを痛感した。言いたいと思っていたことの一文字もまともに伝えることができなかった悔しさが残っている。こういう想いを繰り返すたび、''自分はなんてつまらない人間なのだろう…''と、ガッカリするし、自分のなかで確かに大事な何かを掴んだと思った時ほど、何も大事なことをわかっていない。ガッカリを避けるように、半端なことを話しては、笑って核心部分を誤魔化してしまう。

複数人のイベントでは、大概、ひとりひとりが本当の本当に思っていることを自分の言葉で話していない気がして、人の話を聞きながら''もっと本音を聞かせてほしい!''と、胸のなかに熱く滾る想いを感じながら黙って過ごすことが多かった。たぶんわたしは真面目なんだと思う。本音を話し合わないなら、なぜイベントをやる必要があるのだろう?と、軽い怒りすら湧いてくる。複数人のなかで本音を話すことが怖いのは、自分の考えがみんなと違って、決して受け入れても、受けとめても、共感も得られないだろうと、はなから人に対して(自分に対しても)諦め、本気で信頼できていないからという気がする。だから、ある程度のライン上の思いまでしか話せず、なんとなくいい話できたんじゃない?程度に着地し、不完全燃焼感だけが、確かな手応えとして自分の内に残る。ほかの人のことはわからないけれど、少なくとも自分はそうだ。昔から人を笑わせることができる人に憧れていて、それができる人に対して、劣等感を抱えてきた。この劣等感の源はなにか考えた時に、圧倒的に頭をつかっていないことと、失敗を恐れて行動できないことが二大原因のように思う。とにかく自分はまだ人を笑わせられるほど何かをやりきっていないし、経験と体験不足なのだと、経験も体験も過多気味の人を前に、敗北感が否めなかった。勝ち負けなんてないけど、やってきた人たちを、今も現在進行形でやっている人を、心の底からカッコいいと思うし、尊敬できる。大切なものを背中で教えてもらった気分。『有難いなぁ〜』と、思う。


早朝から散歩し、神社を参拝し、料理もして、人と話しながらごはんを戴き、運動をして汗を流し、またごはんを食べながらお喋りし、木々の間から流れてくる風に吹かれてシャワーを浴び、夜の散歩に出かけ、蝋燭に灯る火を眺めながら今日を振り返った。


燻る想いはあれど、振り返ってみれば最高の一日だった。


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朝 神社









前夜祭

夏至前夜。

あまりにも気持ちのいい風が吹いている。

ほぼ屋外のお風呂に入る気持ちよさを知ってしまった今、夏が終わるまでは屋内のお風呂に戻れそうにない。


今朝は早くから洗濯をし、朝食をとり、仕事に行くまでの間、心を落ち着ける時間を過した。降りてきたメッセージを小さな紙に丁寧に書き、巻き物のようにくるくると丸めた。

それは、とても静かで穏やかな時間だった。


まだ22時前だ。このまま布団に入っても朝まで眠り続けることは難しいだろう。風に吹かれに夜の散歩に行く。


散歩道で夜空を仰ぐ。

またあの透明な青空の夜だ。吸い込まれそうに透き通る空の果てには、どんな世界が広がっているのだろう。もしも、今日まで生きたすべての記憶が消えてしまうとして、あの空の向こうを目指して飛んでみたい気持ちが自分の胸の内に一雫はあることを、感じながら明日を迎えたい。


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一点を目指して





書けない

ブログが書けない日々が続いている。

夏至まであと2日。

300記事アップを目標にしていたが、とても無理な状況になってしまった。


いままでと、今では、一体何が違うのだろう。あれほど、ただ思いつくままに書けていたというのに、現実に動き出したことで、''おいしいとこ取り''ができなくなってしまったことが大きな原因かも知れない。


……わたしは幼少期、自分の想いをただの一度も親に伝えることのできないこどもだった。

気分が悪くて吐き気があるような状況でも、押し黙り続け、我慢できなくなって、あろうことか、フレンチレストランの白い綺麗なテーブルクロスの上に吐いてしまうというような汚点を歴史に刻み、傷を抱えながら生きてきたりした。

親姉兄親戚の誰のことも信用・信頼できなかった幼少期のことを思い出すと、時折、あの時の幼い自分を抱きしめてあげたくなるような、そんな気持ちになったりもする。

なぜ、あれほどまでに、ひとりぼっちで生きていたのだろうか。理由がわからない。生理がきたことを隠し通そうとしたことも、自分という存在が女の子に生まれたことを喜ばれていないような、そのような空気を感じていたからかもしれない。母親の小さな子どもという役割をずっと生きなければいけないと思っていた。


別にだからと言って、母親を恨んでもいなければ、仲が悪いわけでもない。ただ、わたしがそのような思いを抱え生きていたことをもしも今伝えたとしても、恐らくあの時のわたしの気持ちに彼女が寄り添うことはないのだろうな、、との察しはつく。そういう繊細な感情を理解できない人なのだ。

それだけの事である。

わたしはいつも、母がわたしの肩越しにテレビを見ながら屈託なく笑っている顔を見て、ごはんを食べるだけでよかった。それだけが安心だった。自分の気持ちをわかってもらうことを望んでいたわけじゃなかったのだ。


このような気質は、誰譲りなのだろう?わたしから始まっているのだろうか。父のお父さんという人は、女をつくって家庭を捨てどこかに消えた人だったらしく、未だに素性を知らないままだ。恐らく死ぬまで知らないままなのだろう。


普通ってなんだろう。

わたしには、とても普通だと思う部分もあれば、普通じゃないと思う部分もある。どちらも自分だ。わたしが自分を普通だと思っている時、わたしは普通じゃなく、わたしが自分を普通じゃないと思っている時、わたしは普通のような気がする。複雑だ。

何れにしても、他者との交わりのなかでしか自分を確認できないことが多い。思い込みが激しかったり、決めつける思考が強いのは、自己完結で生きてきた時間が長いことが根底にある気がしている。他者との交わりを通し、すこしずつ、すこしずつ、自分で複雑に絡めた糸を解く作業をしている最中なのだろう。これからも失敗しながら、何か手応えのあるものを掴んでいくのだろう。


人生の棚卸し。

空っぽになった棚に、いまのわたしが心から好きだと思うものを、ひとつひとつ、丁寧に愛を込めて並べていきたい。



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静謐





人生初

この6月は人生初続きだ。


はじめての共同生活に加え、はじめての犬がいる暮らしを体験している。


もしも、気が合う者同士だけで暮らしていたら、いかに快適に過ごせるかを、自分の知りうる世界の範囲内だけで選択していくのだろうが、色々な人と共に暮らすということは、自分の意思とは無関係に、想定範囲の外に連れ出される事態が起き、その度にいろんな気持ちになり、心を揺さぶられ、今に挑戦していくことになるのだなぁ、、と、実体験を通して感じている。

人にはそれぞれ、生きる上で自分に最適なペースというものがあると思うが、ひとりでいたら、そのペースが乱されることはないが、新しい価値観などに触れる機会にも恵まれない。


正直今回、わたしは一瞬怯んだ。

まだ慣れない共同生活に加え、犬という未知の命の登場に(わたしは生まれてこの方、犬猫を飼った経験がない)''……わからないけど、大丈夫だろうか?''と。

不安に気持ちが傾くと、逃げ出したいような、自己防衛をしたくなるような、ネガティブな心情に支配される。その状態を好きか嫌いかで判断した場合、嫌いだと思った。想定範囲外の命と共に生きる機会を与えられたことに、なんらかの学びを得たい。都合のいい時だけ良くて、都合が悪くなったら逃げ出すような生き方をお前はしたいのか?自らに問う。答えはNO。どんなことも広く大きな心で受け止められる人にわたしはなりたい。なれないかもしれないけれど、なりたいと思っている自分の気持ちを確認できた。確認できたから、大丈夫だと思えた。

何が起きても『おっ!!面白い展開だなぁ〜』なんて笑って、目の前で起きていることをその時の自分が前向きに楽しんでいけたらいい。楽しめないなら楽しめないで、そんな自分を責めることなく、それもまた受け入れていけばいい。と同時に、他者の選択も、心情も、決してジャッジすることなく、受け止められるよう、心を整えながら日々を送りたい。


中道意識からズレている時は、感謝からも離れている。感謝の気持ちを胸の真ん中に生きたいと思う。



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龍が見ている


ラブコール

夏至が近づいている。

もうすぐこのブログをはじめてから一年が経つ。

5年ほど前までわたしは死んだように生きていた。あの頃の一年は、三年前も、五年前も、ほぼ周りの景色は変わらず、繰り返される情報操作の波のなか、感情に乏しく、ただただ、それが過ぎ去るのを眺めて見送るような味気ない日々だった。

対してこの一年を振り返ると、今までの十年分くらいをギュッと濃縮したような、真剣に生きている実感を伴う生き方ができていたように思う。大きな違いは、自分の頭で考え、心で感じることが当たり前になったことにある。何が起きてもいい。誰が何を言ってもいい。それを自分がどう捉えるか。どう自分自身に活かすか。四六時中そんなことばかり考えている。疲れそうなものだけど飽きない。魂や精神世界に興味があるから、ひとつ新しい気づきがあるたびに、いちいち感動する。

不思議なシンクロやテレパシー的な事象が起きると、目に見えるものが全てではないことがわかりやすく理解できる。人との出会いも最近では必然としか思えなくなってきた。人生のこの場面で再会を約束してたであろう前世繋がりの人や、未来のひとつのパラレルのなかで関わりをもった人との出会いも経験した。前世の人たちとの関係性はうっすら思い出せることがあるのだが、なぜか、未来の人たちとの関係性はまったく思い出せない。けれど、確かに知っているという感覚。魂はどれだけの時間、旅をし続けてきたのだろう。


この6月から、予てから通っていた、横浜のRest in Peaceなる家に、週の半分暮らすことになった。共同生活は初めての体験になる。

これまであの家にはあそびに通いつづけてきたが、血縁上の家族以外の人たちと生活を共にするということが果たして自分にできるのか、正直未知のことだし、不安が無いわけではなかったのだが、不安より、やってみたいという思いが勝った。わたしは住人のひとりになるが、気持ち的にはみんなのお母さん的存在でありたい、という思いがある。目指すは、ムーミンママやバカボンのママだ。あのレベルに到達するにはまだまだ役不足感は否めないが、大きな目標があることは向上心を保ち続けるために大切だと考えている。

食事などは、普通の家のお母さんが毎食(じゃないにしても)ごはんを作るのと同じ感じで、作ってみんなと食べたいし、共に暮らす人や、あそびに来た人といろんな話をしてみたいし、あの家でできることをみんなで模索していきたいと考えている。

先日、早速作った料理が好評でやる気も出る。仕事に出かける住人Kくんが、おかずをお弁当に持って行ってくれたことが嬉しく、お弁当に合う濃いめの味つけのおかずを夜大量に作っておけば、次の日、朝ごはんやお弁当にできていいな、、などと、ウキウキしながらイメージしていた。わたしは料理が好きなのだと思う。

もしも、このブログをずっと見続けてきてくれた人がいるのなら(最近でも一回でも)わたしに会いに来て欲しい。あなたと話がしてみたい。こんな世界(コロナ以降の)になった今だからこそ、直接会うということで生まれる何かに期待したい。面白いことが起きるのは、いつだって人と人とが出会った時だ。わたしはそう思っている。



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LOVE&PEACE🌈



Peaceful

心が落ち着いている。

落ち着いていながら、熱く青い炎が胸の中で静かに、けれど意志を持って高く高く燃え上がっている。


これまで曖昧にしていた何かをしっかりと掴めた感覚。掴んだ手を離さないと決めてしまえば、全ては叶う。

それがたったひとつの真実であるならば。


わたしの魂の冒険記の新たな登場人物が水面下にどんどん現れ出している。拡大。拡張。


わたしたちは、男や女である前に、人間だ。

そして、人間である上に、男であり女である。本来、お互いに協力しあって生きていける存在のはずが、健全にそれぞれの良さを発揮し合って生きている環境は、何故かまだまだ少ない気がする。


わたしが健全な女とはなにか?を考えた時に出てきたのが、一緒に台所に立てるかどうか?だった。

お喋りでもしながら、ひとつの料理を作り上げられるのなら健康である。料理は個人の手柄をあげるためにするものじゃない。誰かに認められるためにするものでもない。ほんとうに食べる人を想って作るのなら、みんなで一緒にできるはずだ。不自然なエネルギーが入ったものは、敏感な人なら食べればすぐにわかる。栄養にならないものを作ってしまっていることに無自覚な人があまりにも多いと思う。栄養にならないものを選んで食べてしまっている人も多いと思う。無自覚であることに気づき、心身に対して、責任を感じるべきだと思う。

料理はみんなでおいしく食べるためにあるものだと思う。じゃなきゃ、心の栄養にならないじゃないか。


では、健全な男とは何だろう?

パッと浮かんだのが、ムーミンパパだ。

ムーミンパパって、わたしの中の男性性の憧れの人(妖精か)のイメージそのものだ。自分が男に生まれていたら、ムーミンパパになりたい!と思ったことだろう。

家族を振り回すほど自由な精神で情熱を持って生きてるパパは、男らしいと思う。そんな人になら、女のわたしも笑ってついていきたい!と思える気がする。自分も自由でいられる気がする点も魅力だ。''はちゃめちゃ''ってとっても好きな感じ。自分なりの美学がそこにあれば何をやっても愛されるし、許されてしまう。


なんの話しをしていたのか忘れてしまった。


どうやら最近のわたしには文章(文字変換)が遅くてフィットしていないようだ。どんどん風要素が強まってきている。元々ホロスコープに風が集中しているため、じっとしていられない。常に十歩も百歩も先を見てしまう。次に多い火の要素も確かにある。火の要素は、タイミングさえ合えば、誰かと共鳴することで、とんでもないスピードとパワーで現実を動かす。

わたしには、いま、右腕と左腕とも言える最高の仲間がいる。この人たちと出会ったことで、ほんとうに、わたしはわたしのコアを生きていいんだという自信が根付いた。ひとりではとてもじゃないけど、乗り越えられなかったであろう試練も、今となっては過去の話だ。想像をはるかに超えてくる人たちに、ワクワクとトキメキがとまらない。この恩は命を活かして返していく。


もう、ひとりで生きることは潔くやめた。

安心して委ねる。同じ生命を生きている信頼さえあれば、一緒にどこにだって行ける。笑ってあそべるんだ。


今日はこれから、わたしの今日の命の全てを捧げる一世一代の勝負の時間が待っている。自分のしあわせのためだけに、自分のエネルギーはつかえない。大切な誰かのしあわせのためになら惜しみなく捧げることができる。

やり残すことなく、やり遂げることをここに誓う。


愛を誓う。



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白紫陽花









格言

なんだかんだ言って、やっぱり体調がすべてだな、と思う。。


丸2日ばかり、久しぶりの頭痛と不眠に悩まされた。気圧のせいかもしれないが、覚醒したせいかもしれない。

そのせいで、何週間も続いた、ダンスも、筋トレも中断せざるを得なくなり、ひたすら身体を休ませることに集中して時間を過した。甲斐あって、だいぶ落ち着きを取り戻しつつある。


今朝も、出勤途中にあるマンションの駐車場のツバメの巣の中にいるツバメに元気よく『おはよう!』と声をかける。巣からちょこっと見えている頭の部分がほんのちょっとピクっと反応するのを見届けてから歩き出す。

あたらしい一日のはじまり。


最近、道場にある日めくりカレンダーの下に書かれている格言をチェックするのを楽しみにしている。毎週日曜日はお店がお休みだから、日曜日のカレンダーは、土曜日の夜、または、月曜日の朝にただ破ることになる。

23日(土)にわたしは次の日の格言をチェックした。

そこには神さまからのメッセージと思わしきことばが書かれていた。これは欲しい!枕元に貼っておきたいと思い、店長に貰っていいか確認をとると『え?別にいいんじゃない?』との返事。有難く頂戴する。

しかも、それに気づく直前、わたしはお客さんが少ないことをいいことに、店長に一方的に壮大な夢の計画を話しまくっていた。店長は、わたしの夢の話に目をキラキラさせて聞き入り、『それはいいね!ぜひ俺も参加させて。』と、こどものように無邪気に反応してくれた。きっとこの人も遊びたいのだ。


コロナのおかげで、生活時間にゆとりができ、少し先の未来を考える余裕が生まれだした今、楽しい想像が未来を明るくする。しばらくわたしは、創造に没頭することに決めた。

自分に集中している。


……実は少し前のこと、思いがけずわたしは闇に捕まった。『まだいたんかい!?』と、軽くひとりツッコミできるほどには気楽に思えず、結構マジで堕ちた。直視するにはかなりの勇気が必要だったが、かなりの勇気で直視した。ここを避けては通れないことは、直感的に理解できたからだ。

そして、気づいた。

これは背負わされたカルマだったのか、と。

それを無自覚に引き受けてしまった自分に対して、悔しさと、怒りと、虚しさと、痛みと、色んな思いが浮上してきた。わたしは被害者だ。こんな闇、わたしのものじゃなかったのだ。ならば、いまこの瞬間に終わらせよう。要らないものに縛られて、身動き取れないなんてそんな馬鹿げた話など採用しなければいいまでのこと。このことは、気づくことも終わらせることも、ひとりではできなかった。わたしは助けられている。常に、愛によって。


もしかしたらみんな、自分のものではないものに振り回されているんじゃないか?


この長年続く苦しみも、生い立ちのトラウマも、引き金は自分じゃない。

現実に自分の身に起きたことだとしても、発端は自分のものではない地球規模の闇にあったのではないか。本当のことはわからない。けれど、わたしは今回このひとつの仮説を採用することにした。すると、信じられないくらい心がすっきりした。すっきりしたのなら、成功だ。自分にとって良いと思うものを採用すればいいのだ。いつだって、自分で決めればいいんだ。変更しても、死んで生まれ変わっても、終わっても、失っても、また愛せば始められる。


最後に、5月24日(日)の日めくりカレンダーの言葉は、''嵐の前の静けさ''だった。



もうすぐ嵐が来る。



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静かな今







建国

うわぁー!!!


はじまる。


はじめる。


どんどん広がる。



どうしよう、、、


じっとしてられない。



やるべきことが


わかったのに


集中できない。



でも、


でも、


この感じは


何かが始まる


予感以外ないじゃないか。



ちょっと


いまのこの気持ちに浸ろう。


明日には


どうなるかわからないのだ。


いまのこの気持ちと


踊ろう。


めちゃくちゃ笑って


飛び跳ねよう。



ラブ♡アース




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ぼくのともだち





礼状

拝啓 リラさま


本日お昼に、梅干し届きました。

あなたが仰ったとおり、ややヘンテコな造りの容器は、開け方を教えていただいていなければ、恐らくわたしには、半日ほどかけても解明することは難しかったことと思われます。


小包が届くのは嬉しいものです。

封を開け、中からまず手紙が出てくると、なんとも例えがたい幸福感に包まれます。それに加え、添えられていたローズマリーを鼻に近づけ香りを嗅ぎました。とてもよい香りでした。あなたの大すきなWilkinsonの250ml缶は、暑い日のお風呂上がりに素っ裸でぐびぐび飲みたいと思います。笑


わたしは嬉嬉として、お手紙を読み、教え通りに梅干しの入った容器の手前を軽く押して、蓋を開けました。中には、ロック育ちの元気な梅干したちが艶々ピカピカと耀いていて、まるで『げんきですかー!?』と語りかけられたような気がしました。


わたしは瞬く間に元気になり、YouTubeくるりの''ロックンロール''という曲を聴きながら、わけのわからない踊りを踊りました。曲の途中、不二家のレモンスカッシュを飲んだりしながら、自由気ままに踊り続け、天国のドアを叩いたのです。


ロックンロールが終わると、自動で''男の子と女の子''という曲が流れ出しました。

ここで、さっそくいただいた梅干しをおむすびにし、最近始めたぬか漬けの野菜がちょうど漬かった頃合でしたので、ぬか床から取り出し、ペティで切りました。今日は、胡瓜とカブです。


梅干しとても美味しかったですよ。梅の自然な香りと丁度いい塩梅の塩加減から、あなたが心を込めて作ったことが感じられました。思いがけず、しあわせな日本のお昼ごはんとなりました。


一昨日、あなたから以前お借りして読んだ、吉本ばななの''サウスポイント''を読み返していました。そして、まだ見ぬハワイ島に想いを馳せました。これは余談ですが、高校時代、Mという友人に''ハチ公の最後の恋人''を『…しゅり好きだと思う。』と、薦められて読んだことも思い出しました。不思議な偶然です。


最後に、サウスポイントより


''あなたの人生にいっぱいいいことがこれからも起こりますように。

満天の星のように、朝の光のように、きれいな滝の水みたいに、どんどん降り注ぎますように。''



あの空に祈りを捧げます。


2020.5.19   朱里



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メイド・イン・ラブ!!


ひとりごと

突如、ブログを全部消そうかな…という衝動に駆られている。


開始から252日、259記事アップしたブログだ。飽きっぽくて、サボテンも育てられないwと言われた人間が、ここまでひとつのことを続けてきたのだ。思い入れが無いわけがない。しかも、これまでの人生で出会った大切な人たちのことを書き記した記事も多い。もちろん、記事が消えたって、その人たちの思い出がわたしの心から消えてなくなるわけじゃない。だけど、これはわたしにとっては作品だ。ただ楽しくてやった仕事のようなものだ。自分が生きた証の一部なのだ。一時の衝動によって消してしまうというのは、いまの自分を否定したいという、幼稚な甘えからくるものな気がしてならない。

読んでくれた人が、もしかしたら、何かほんの僅かでもほんとの自分を生きるヒントになり得ることを書いていた可能性もないとは言えない。


昨日、覚悟について考えていたちょうどそのときに、たまたま聞いたわたしの尊敬する宇多田ヒカルの''forevermore''という曲の歌詞にその答えが集約されていた。

宇多田ヒカルは、自分の愛とは何かを知っている人だと思う。


思考には癖がある。生きてきた中で染み付いた手垢にまみれた観念というやつだ。

わたしは、この2年ほどの間、自分の気持ちに正直に行動をしてきた。やりたいと思ったその時に、なるべくすぐに行動する。その結果が自分の望むものでなかった時は、わかりやすく傷ついて落ち込んだ。そして次に思うのは『これは失敗だったから、次はもっと違うやり方をしてみよう』ということだった。うまくいかせるためにはどうするか?に切り替えるというやり方を選び続けた。そして、うまくいく時もあったし、失敗したら、また違うやり方を試す、ということを繰り返した。

この流れを思い返し、……ちょっとまてよ、といまのわたしは思い始めている。

上記やり方が悪かったわけではない。けれど、やりたいことをやる、ということをもっと軽やかにとらえるのであれば、やりたくてやる、それが全てなんじゃないか?

結果など関係ない。次のことなどわからない。やりたくてやったその時、わたしはいまを生きていた。それがいちばん大事なことで、それだけが大事なことで、結果をみて、次にうまくいかせるためにどんな行動をするか、を考えたところで、それを考えた自分は、行動をした直後その瞬間にしか存在しないではないか。

なぜなら、わたしたちは常に宇宙の流れに同調していて、自然と共に変化し続けているからだ。


そうか、これがいまを生きるということか。


過去も未来もない。

いまこの瞬間を生きること。

それだけが真実だ。


さらに言うなれば、正直、ゴールから始まった冒険だとどこかでわたしは知っているのだ。つまり、ゴールに戻る過程に、やりたいこと、味わいたい感情や体感などを、遡ってやってる今だということ。つまり、遊んでるのだ。ゴールが決まっている以上、何を選んでもいいのだ。好きにやればいいのだ。わたしたちには平等に、生かされて生きている命をどう生きてもいい自由が与えられている。ほんとにそれを想うと、心が瞬時に地平線を超え、彼方へと光のスピードで放たれる。


結局、衝動に駆られながらも、消さなかったということは、本当には消したくなかったんだと思い至った。このブログは続けよう。こんなまだまだ未熟な自分のためにも、これからも終わることのない気づきの波をひとつひとつ重ねる場としても、本当の光と闇を理解するためにも、愛のためにも。






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大和撫子