朱里日記

❁小さな自叙伝からはじまる魂の冒険記❁

書けない

ブログが書けない日々が続いている。

夏至まであと2日。

300記事アップを目標にしていたが、とても無理な状況になってしまった。


いままでと、今では、一体何が違うのだろう。あれほど、ただ思いつくままに書けていたというのに、現実に動き出したことで、''おいしいとこ取り''ができなくなってしまったことが大きな原因かも知れない。


……わたしは幼少期、自分の想いをただの一度も親に伝えることのできないこどもだった。

気分が悪くて吐き気があるような状況でも、押し黙り続け、我慢できなくなって、あろうことか、フレンチレストランの白い綺麗なテーブルクロスの上に吐いてしまうというような汚点を歴史に刻み、傷を抱えながら生きてきたりした。

親姉兄親戚の誰のことも信用・信頼できなかった幼少期のことを思い出すと、時折、あの時の幼い自分を抱きしめてあげたくなるような、そんな気持ちになったりもする。

なぜ、あれほどまでに、ひとりぼっちで生きていたのだろうか。理由がわからない。生理がきたことを隠し通そうとしたことも、自分という存在が女の子に生まれたことを喜ばれていないような、そのような空気を感じていたからかもしれない。母親の小さな子どもという役割をずっと生きなければいけないと思っていた。


別にだからと言って、母親を恨んでもいなければ、仲が悪いわけでもない。ただ、わたしがそのような思いを抱え生きていたことをもしも今伝えたとしても、恐らくあの時のわたしの気持ちに彼女が寄り添うことはないのだろうな、、との察しはつく。そういう繊細な感情を理解できない人なのだ。

それだけの事である。

わたしはいつも、母がわたしの肩越しにテレビを見ながら屈託なく笑っている顔を見て、ごはんを食べるだけでよかった。それだけが安心だった。自分の気持ちをわかってもらうことを望んでいたわけじゃなかったのだ。


このような気質は、誰譲りなのだろう?わたしから始まっているのだろうか。父のお父さんという人は、女をつくって家庭を捨てどこかに消えた人だったらしく、未だに素性を知らないままだ。恐らく死ぬまで知らないままなのだろう。


普通ってなんだろう。

わたしには、とても普通だと思う部分もあれば、普通じゃないと思う部分もある。どちらも自分だ。わたしが自分を普通だと思っている時、わたしは普通じゃなく、わたしが自分を普通じゃないと思っている時、わたしは普通のような気がする。複雑だ。

何れにしても、他者との交わりのなかでしか自分を確認できないことが多い。思い込みが激しかったり、決めつける思考が強いのは、自己完結で生きてきた時間が長いことが根底にある気がしている。他者との交わりを通し、すこしずつ、すこしずつ、自分で複雑に絡めた糸を解く作業をしている最中なのだろう。これからも失敗しながら、何か手応えのあるものを掴んでいくのだろう。


人生の棚卸し。

空っぽになった棚に、いまのわたしが心から好きだと思うものを、ひとつひとつ、丁寧に愛を込めて並べていきたい。



f:id:like_nanohana:20200620070102j:plain


静謐