朱里日記

❁小さな自叙伝からはじまる魂の冒険記❁

建国着想記念日

という、タイトルの記事を書きたいのだが、どうしたことか、眠くて眠くて仕方がないのである。

なぜなら、建国着想のために、右脳、身体をフルパワーでつかってしまったため、余力がない状態。
''やっとここまで来た''という安堵と、''まだまだなんも始まってねーじゃん''という危惧のこえが等しいボリュームで迫ってくる。

明日につづく…

再開!

このブログを始めてから約4ヶ月あまり。
仕事も辞め、貯金も使い果たし、いよいよ、生活どうすんの?というところまできた。
最初の方の記事を読んでいただけるとおわかり頂けるはずだが、わたしは年齢的にもこんな崖っぷちによく立てるな、、と思われても全くおかしくない状況にある。
真面目にひとつの仕事を続けてこられた人や、誰かのために自分が頑張らないといけないと思っている人なら、尚更理解不能、有り得ない選択をして生きてると思われるであろう。

事実である。

ただ、上記の問題点は、主に金銭面に関してで、それ以外の生きていくために必要なものは、有難いことにほぼ持ち合わせているし、不思議なことに、お金が減っていくほどに幸福度だけはどんどん上がってきた。
いまのわたしは最高にハッピーだ。

何故このような現象が起きたのかについて、解説したい。

仕事をして報酬を得る。ここに重きがおかれるのは、お金が無いと生きづらいシステムが社会の根底にあるからだ。お金がたくさんあれば、好きなことができるし、好きな家を選べるし、好きなものが食べれる。やりたいことがなんでもできる。みんなそう思い込んでいると思う。
が、しかし、そればかりを追い求めることで、同時に何より大事な人間に与えられた感情を味わう喜びを失っていく。
どんなに頑張っても、ほんの一部の人しかお金をたくさん稼ぐことは難しく、大多数の人は、現状に満足できず、不平不満が募り、酷いと病気にまでなってしまう。

何かがおかしい。

わたしには自分なりに生き方のシフトチェンジをしたことで見えてきた真実がある。
それまでの当たり前であった、仕事をして報酬を得なければ生きていけないという思い込み(社会システムからの洗脳)の外に飛び出し、お金が減っていくにつれ不安になる気持ちを体感した時に、なぜ不安になるのかをよくよく観察した。
その結果、''お金が無いと生活ができない''この考えがあまりに根深い固定観念として自分に染み付いていることに気づいたのだ。
そして、自分の代わりがいる仕事をやり続けることのために生きている、その理由が、上記固定観念によるものであるなら、常に本当の喜びを感じて生きることは不可能だと悟った。
なぜなら、生きることの目的が生活するためになってしまうからだ。
生活するために生きたいわけじゃない。
しあわせに生きたいのだ。
神さまに与えてもらった命を、生きていることの喜びを感じるために生きたいのだ。
わたしは、不安の原因がわかったので、それについては一旦放置し、自分が望む生き方について考える時間や、喜びを感じる時間を過ごすことに費やした。

朝好きな時間に起きて、太陽の光を浴びる。外を歩く。花を見て季節を感じる。家族にありがとうを伝える。神社で神さまにありがとうと伝える。健康であることを喜ぶ。笑う。自分が好きなことや楽しいことをやる。会いたい人に会う。本当の会話をする。etc…

そのような日々を積み重ねてきた今、途中何度も不安の方に引っ張られそうにもなったが、その度に助けが入り、不安な世界に戻ることは選ばなかった。(一度だけ失敗したけど学びがあったのでよしとしている)

おそらく、ここまで読んでいただいて、お金が全く無くなったらそれまでの生活はできないのではないか?という疑問を持たれたと思う。確かにそう。みんなここを先に案じるから、簡単にシフトなんて選べない、そう思うと思う。わたしの場合、しばらく金銭の面では助けてもらえる人がいるため、頭を下げた。この人物はできれば伏せたいが、勇気を出して言いたい。

その人物とは、
21歳になったばかりの息子だ。

それだけは絶対にしたくなかった。親としてのプライドが許さなかった。
……だが、わたしは考え方を宇宙レベルに飛躍させた。もしも、もしもだ、彼がわたしの魂の冒険計画を知っていて、今世わたしの元に生まれてきてくれたとしたら、わたしを助けることを初めから決めていたとも考えられるのではないだろうか?
とんでもないことを言っているのはわかっている。
しかし、わたしはこれから思い出した自分の神事に仕える覚悟を決めている。
これまで出会った愛する人たちはみな、わたしを本当に愛し、支えてくれたのだ。ここまで連れてきてくれたのだ。それは、わたしに役目を果たさせるためであったとしか、もはや思えない。

わたしは愛し愛されて生きている。

やっと、心の底から堂々と胸をはって言える日が来た。この愛はうれしさや楽しさで循環させ、拡大させていく。

ここからいまの現実を見つめると、それだけはしたくない、親としてのプライドが、、などという思いが、いかに小さなことか思い知る。けれど、先に生活を案じてそればかりにエネルギーをつかい続けていたとしたら、決してここには辿り着けなかっただろう。

これを読んでくれているあなたはきっと、まだ無自覚かもしれないが、革命を起こしたいと潜在意識下では望んでいると思う。じゃなければ、わたしのこのブログには辿り着いていないはずだ。どこか燻っている自分の背中を押してくれる力を求めているはず。
自分には助けてくれる存在などいない、という人もいるかもしれないが、自分を、大きな存在を信頼して身を委ねれば、ギリギリのところで助けが入るはずなのだ。
なぜなら、神さまはあなたにしかできないことを成すことを望んでいるから。そのためには力をかして下さる。だから、神社にお参りするのです。感謝を伝えるために。なぜ自分があれほどまでに、神社仏閣に招かれたり引き寄せられたかの理由がここにあった。

この飽きっぽいわたしがこれだけ(ブログ)は続けてこれているのも、きっとこれがわたしの使命のひとつにあるからだと思う。
もちろん、自分も楽しい。文章を書くことが好きだからだ。自分の書いた記事のひとつひとつが宝物で、何度読み返しても飽きない。なぜなら、すべてがわたしだからだ。自己満足の極み。自己満足は悪者に見られがちだが、ちがうと思う。

自己満足は、うれしさや楽しさや喜びのエネルギーに満ちているのだ。『そんなの自己満じゃん!』なんて批判は気にする必要はない。それを言っている人間はうれしくも、楽しくも、喜んでもいないのだから。
自分が満たされると、溢れた愛は誰かにあげたくなる。愛を渡す。それを受け取った誰かが感謝する。誰かにしてもらった親切をまたその誰かが誰かに渡す。それが循環だと思う。
''お金はエネルギー''の意味がようやくわかり始めた。おそらく、お金は愛のエネルギーについてくるようになっているのだ。
だから、わたしは心配などしていない。自分がやりたいことをやり、愛に生きたら、お金はいずれやってくると信じているからだ。それだって安心してみんなが生きていけるだけあれば十分だ。なぜなら、しあわせだからだ。自分の望む生き方ができれば満たされるからだ。必要以上にお金を求める必要がなくなるからだ。満たされない心と身体で働いて、その報酬でそれを埋めても、そこには本当の満足は永遠に訪れない気がする。

わたしは、わたしの描く理想の世界を想像できた。あとは創造に着手する日がくるタイミングを待ちながら、好きなことをして過ごす。

つづく


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雨上がりの園