朱里日記

❁小さな自叙伝からはじまる魂の冒険記❁

ひとりごと

突如、ブログを全部消そうかな…という衝動に駆られている。


開始から252日、259記事アップしたブログだ。飽きっぽくて、サボテンも育てられないwと言われた人間が、ここまでひとつのことを続けてきたのだ。思い入れが無いわけがない。しかも、これまでの人生で出会った大切な人たちのことを書き記した記事も多い。もちろん、記事が消えたって、その人たちの思い出がわたしの心から消えてなくなるわけじゃない。だけど、これはわたしにとっては作品だ。ただ楽しくてやった仕事のようなものだ。自分が生きた証の一部なのだ。一時の衝動によって消してしまうというのは、いまの自分を否定したいという、幼稚な甘えからくるものな気がしてならない。

読んでくれた人が、もしかしたら、何かほんの僅かでもほんとの自分を生きるヒントになり得ることを書いていた可能性もないとは言えない。


昨日、覚悟について考えていたちょうどそのときに、たまたま聞いたわたしの尊敬する宇多田ヒカルの''forevermore''という曲の歌詞にその答えが集約されていた。

宇多田ヒカルは、自分の愛とは何かを知っている人だと思う。


思考には癖がある。生きてきた中で染み付いた手垢にまみれた観念というやつだ。

わたしは、この2年ほどの間、自分の気持ちに正直に行動をしてきた。やりたいと思ったその時に、なるべくすぐに行動する。その結果が自分の望むものでなかった時は、わかりやすく傷ついて落ち込んだ。そして次に思うのは『これは失敗だったから、次はもっと違うやり方をしてみよう』ということだった。うまくいかせるためにはどうするか?に切り替えるというやり方を選び続けた。そして、うまくいく時もあったし、失敗したら、また違うやり方を試す、ということを繰り返した。

この流れを思い返し、……ちょっとまてよ、といまのわたしは思い始めている。

上記やり方が悪かったわけではない。けれど、やりたいことをやる、ということをもっと軽やかにとらえるのであれば、やりたくてやる、それが全てなんじゃないか?

結果など関係ない。次のことなどわからない。やりたくてやったその時、わたしはいまを生きていた。それがいちばん大事なことで、それだけが大事なことで、結果をみて、次にうまくいかせるためにどんな行動をするか、を考えたところで、それを考えた自分は、行動をした直後その瞬間にしか存在しないではないか。

なぜなら、わたしたちは常に宇宙の流れに同調していて、自然と共に変化し続けているからだ。


そうか、これがいまを生きるということか。


過去も未来もない。

いまこの瞬間を生きること。

それだけが真実だ。


さらに言うなれば、正直、ゴールから始まった冒険だとどこかでわたしは知っているのだ。つまり、ゴールに戻る過程に、やりたいこと、味わいたい感情や体感などを、遡ってやってる今だということ。つまり、遊んでるのだ。ゴールが決まっている以上、何を選んでもいいのだ。好きにやればいいのだ。わたしたちには平等に、生かされて生きている命をどう生きてもいい自由が与えられている。ほんとにそれを想うと、心が瞬時に地平線を超え、彼方へと光のスピードで放たれる。


結局、衝動に駆られながらも、消さなかったということは、本当には消したくなかったんだと思い至った。このブログは続けよう。こんなまだまだ未熟な自分のためにも、これからも終わることのない気づきの波をひとつひとつ重ねる場としても、本当の光と闇を理解するためにも、愛のためにも。






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大和撫子