今年の夏至の日に、わたしはこの自叙伝から始まる魂の冒険記というブログをはじめる決意をした。
あれから5ヶ月。
ほぼ毎日更新することが日常に組み込まれ、半年前までの生活と今の生活は、大きく変わった。
当初、今までの生き方を変えたかったわたしは、主に会社からお給料をもらう仕事から自分で稼ぐ、という仕事にシフトするためにはどうしたらいいかを考えていた。
それなりの投資もしたし、勉強も、行動もした。SNSで発信する女性たちに感化され、やらなければと、と、いつも思っていた。
だが、その都度、自分の底から湧き上がる本能ともいうべき原動力に欠けることを痛感した。これがエゴの仕業か?と、エゴのせいにしてみたりもして。
そんな最中、こころが夢中になるものや、人との出会いや交流も経て、わたしは、本当に好きなものには、こころも体も踊り出すことを体感したのだ。
そのおかげもあってか、自分で稼ぐ仕事をすること、これがわたしの本当にやりたいことではないことが段々と理解でき始めた。
このタイムラインはマインド(頭で考えている思考、目で見ている世界が見せているもの、言っていることなど)が全てを支配しているということ。
このラインを選び続けている以上、本当に自分がずっとしあわせを感じていられる状態では生きられないということに気づいた。そこには必ず比較が生まれるから。なぜなら、大多数の人がそこにい続けていて、その中で競走しているのだから。
わたしが、メンターと崇めているほんの数人の人たちは、上記のタイムラインを脱している。みな表現の違いはあれど、本質は同じことを言っている。わたしがその人たちに惹かれた理由は、その本質を見ていたからだ。
自分だけの答えをみつける旅をするということ。真実はひとつ。けれど、楽しみ方、辿り着くまでの行程などは千差万別。同じなど有り得ない。自分だけの真実へのグラウンディング方法を自分のなかから見出す。それこそがソウルワークに繋がっている。
楽器に調律が必要なように、人間にも最上の状態を保つための微細な調律が常に必要だ。
大事なところなのでもう一度言う。
〝最上の状態を保つための微細な調律が常に必要だ。〟
自分に手間暇かけた分、ちゃんと自分から、神さまから、返ってくるものがある。
この5ヶ月の間、わたしは自分へ手間暇かけ続けた。このブログがその証だ。
その恩恵を今回の旅から多大に受け取った。
わたしが新しく選んだタイムラインを生きる自分の心が映し出したセカイは、あまりにも美しく、神々しく、眩い光に照らし出されていた。
もしも、あのループ上で判断するとしたら、仕事は失ったし、お金もないし、年齢は重ねてるし、身体は衰え、いいことなんて何ひとつないように見える。いまのわたしを批難し、見下す人がいるとしたら、その人はまだあのループ上にいると思えばいい。
自分にとっては、あの場所から離れたいま、失ったと見えるものは、寧ろ恩恵にさえ思えてくる。大事なことに気づくために、ただそれらの事象が必要だっただけなのだ。何も失ってなどいない。わたしはわたしのままだ。また新しくいまここから人生を始めればいいのだ。
わたしたちはいつだって、そのままであればいい。
あの時の(ブログはじめた頃の)自分が、懐かしくて、思い出す度に、あまりに幼くて、かわいくて、愛おしくなる。真実を知るまでの間、あの場所で、苦しみや痛みや無力さや不安や戸惑いを感じることから逃げなかった自分は、強く優しくなれたと思う。
いま、大阪に向かう車内でこの記事を書いている。
車窓から流れゆく紀伊山地の山々、那智の海、熊野川、八百万の神々に胸の中でお礼を言いながら眺めていた。自然と涙が溢れてくる。
斜め後ろの席では、赤ちゃんが大声をあげて全身全霊で泣き続けている。
私たちはみな、泣きながらこの地球に生まれ出てきたことの、これ以上確かな証は他になく、赤ちゃんが泣けば泣くほど、わたしも泣いた。
この涙の海に命は溶けて、いつの日かまた還っていく。
その前に、この地球で、全ての生命が等しい価値にあることを思い出せるセカイを生きたい。
あなたと生きたい。
同じ風景を