朱里日記

❁小さな自叙伝からはじまる魂の冒険記❁

2019年10月31日

時々、日付をタイトルにする日があるが、これといって理由はない。


今年の10月も今日で終わる。


巷はハロウィン。自分とは無関係。それでも、あれだけ都会でハロウィン(コスプレして大騒ぎなど)が流行るのは、みんな心が飢えてる証拠だと思う。なにかに託けて、満たされない心の隙間を埋めるために、騒ぐのだろうだなぁ~と推測する。要するに、自分の人生が充実していないのではないか?ということ。ワールドカップも同じ。人の人生に便乗して、手っ取り早く刺激を求めているのではないか?どうしてもそんなことを思ってしまう。

自分の人生が充実していれば、あんなに夢中になれるかな?そもそもそんな時間あるのかな?

ハロウィンはもともとアメリカでは古代ケルト人の宗教的行事だったということは、ウィキペディアで検索すればすぐに出てくるが、日本ではお祭り騒ぎばっかりで~と、よく言われるけど、別にそういうウンチクを言いたいわけではサラサラない。以前の職場にいた女子が、この手のウンチクを言って『だからわたしは日本のハロウィンには興味ありません!』と豪語していたが、意外とこういうこと言う人って、実はいちばん自分がお祭り騒ぎしたいと思ってることがある(本人無意識)から、厄介だ。

物事って、ほんとに見る角度によって、見える景色がまるで違うから面白い。ひとつの議題について行く通りもの答え方があるから、ひとことで答える時は、ひとつの側面に対しての答えでしかない。わたしが今日、日本のハロウィンについて思ったことは、楽しむのはいいけど、本当に楽しいのか?を問いたいということ。


なぜなら、わたし自身が主婦時代、自分の人生が何も楽しいと思えなく生きていた頃、サッカーのワールドカップに夢中になったりしたからだ。お祭り騒ぎに便乗することで、空虚な心を満たそうとしていた。けれど、やはりそれは過ぎ去ると全く何も残らない。一瞬の高揚感を味わえど、かえって、過ぎたあとは虚しかったりしたものだ。あの時は気づけなかったことが、いまならわかる。


もう、本当のことしかいらないのだ。本物にしか心が動かないのだ。だから、寂しさや切なさは避けて通らない。紛らすことを放棄したら、かならずそれらの感情は常に自分と共にあるから。それが真実だから。


上の話に戻るが、今までいつも問に対する答えを出した時に、「やっぱり違うかも。」と思うことがよくあったのだが、それは、自分の出した答えが、その問いに対するひとつの側面から出した答えでしかないことを自分で理解できていなく、なおかつ、質問者にもそれを説明出来なかったことが理由かも、といま気づいた。わたしが出した答えは、あくまでも、その問に対する幾通りも存在する答えのひとつでしかないのだ。だから、何かをわかった気になるのは、いつだって10年早いのだ。


↑の記事を書いた以降、実は、本来のハロウィンと関係するような異空間で時間を過ごした。自分とは関係ないとか言ったけど、けっこうあったらしい。眠らない夜を超えた。


一瞬うつらうつらして、はっと目を開けたとき、ものすごい新鮮な光が窓から差し込んでいて、思わず『あっ!!』と声を上げた。


『あれ?いまわたしは一体どこにいるのだろう、、』


一夜にして運ばれた。新しいセカイへと。



お化けたちの仕業か、否か。

昨夜いたセカイと分かれたわたしの目の前には、小春日和のやさしい一日が開けていた。



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薔薇 薄桃色