朱里日記

❁小さな自叙伝からはじまる魂の冒険記❁

幼少期


わたしは二十歳で結婚した

1998年5月のこと

息子が生まれ、
5年後に娘が生まれた

そして、
三十八歳で離婚した

2016年3月のこと


わたしは東京生まれの東京育ちで、父、母、7つ上の姉、5つ上の兄、祖母の6人家族の中で育った。

祖母は自宅で雀荘を営んでいた。
祖母の部屋は四畳半の小さな四角い部屋で、その部屋の真ん中には掘りごたつがあり、わたしは保育園の頃からそのこたつの中であそぶのが大好きだった。
電源を入れないと真っ暗なので、電源を入れて、熱々の酸素の通らない空間で、嬉嬉として自由を満喫していたのだから、こどもってすごい生き物だなぁ〜と感心してしまう。

わたしは子どもの頃の記憶はかなりはっきり覚えている方だと思う。

悲しかった思い出は、兄が小4で、わたしが5歳の頃、自宅で鬼ごっこをしていたとき、わたしは兄を2階の部屋の窓際まで追い詰め、そのまま兄が外に転落して生死の境をさまよったこと。

一命は取り留め、さらには、大きな後遺症なども残らずに回復したものの、それまで優秀だった兄が、その事故以降、特に秀でたところもなくなり、のちに大人たちが当時の事故を持ち出しては『2階から落ちてなければなぁ〜』などと冗談交じりに言うのを聞く度、わたしは内心、深く傷ついていたのだと思う。だから大人になった今も、けっこう冗談が通じなかったりするのだ(と、何でも真に受けてしまう理由にいま気づいた)

ほかにも、傷ついた記憶に印象的なシーンがある。

当時、祖母が暮らしていた家を建て替えて、私たち家族と一緒に暮らす前、団地の8階に住んでいた時のこと。
わたしはまだ4歳になるかならないかといった小ささだった。

団地の下にはいつも屋台のおでん屋がおり、
おやつに母親がよく買ってくれていた。
その日も、いつものように、大根やら、はんぺんやら、ちくわぶやら、たまごやら、竹輪やら、コンニャクやら、まあ、けっこう盛沢山買い込んでいて、持ち帰る際、おでん屋のおじさんは、透明のビニール袋におでんと溢れんばかりの出汁を入れて、口のところを輪ゴムでキュッと結んで渡してくれた。
渡し方はいつもこのスタイルだった。

その時に、わたしが持っていたのか、母親が持っていたのかは正直記憶が曖昧だが、エレベーターで8階に着いた時、おでんはわたしが抱えていたことになる。

エレベーターを降りるまさにその瞬間、おでんは勢いよく床に落ち、物凄く広い範囲に散らばったのだ。

わたしは多分、怒られなかったのだと思う。
怒られた記憶はないから。

ただ、温かいおでんと出汁が無残に床に広がった情景が40歳を過ぎた今もあまりにはっきりと脳裏に焼きついていて、その情景にくっついて、悲しみの感情までもが生々しく蘇ってくる。
ただ、悲しくて、悲しくて、きっとあれは、私が生まれて初めて体験した''傷つく''という経験だったのかもしれない。

そんなことを未だに覚えているという、人生に活かせる要素のない半端な記憶力のよさに、今もちょっとだけ恨みがましい気持ちになる。


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 2019年春  諏訪神社裏の路地