朱里日記

❁小さな自叙伝からはじまる魂の冒険記❁

続 幼少期

下書きが消えた…悲しい。


幼少期を思い出して、記事を書いてみたら、

ひとつの出来事、それに付随した感情が源になり、様々な記憶が泉のように湧き出てきた。


忘れないように書き記しておきたいと思う。


わたしは4歳から小学校に上がる6歳までの2年間、キリスト教系統の保育園に通った。

母曰く、幼稚園に入れたかったらしいが、当時は専業主婦の家庭が多く、幼稚園の方が人気があったため、やむなく近くの保育園に入れることにしたらしい。

その園がたまたまキリスト教の保育園だったというわけだ。


保育園での思い出に、お弁当を食べる前と、おやつを食べる前に唱える『天に召します我等の父よ』という決まり文句からはじまるお祈りのコトバがある。

両手を胸の前で組み、目を閉じ、なにも考えずに教えられるがままそれを唱えていたが、今も鮮明にそのコトバは私の胸の中心でこだましつづけている。


この歳まで、どれだけの数数え切れないほどの情報を植え付けられて生きてきたかは、俄に計り知れないが、その中で、今もなお、記憶から消え去らずに自分に残っているものの内には、やはり大事ななにかがあるような気がしてならない。


神さまがいつも自分の行いを見ている、そういう感覚がわたしにあるのは、キリスト教の保育園時代、さらには、小学校時代、クリスチャンだった友だちの影響で通い続けた日曜学校、初めて体験したお葬式がその友達のお父さんのお葬式で、教会式だったこと、大人になってから、高校時代の親友が贈り続けてくれた、彼女の聖地の教会からのクリスマスプレゼント、出会った大切な人の愛読書がクリスチャンの作家の作品であることなどなど、、点と点が繋がり、今のわたしの一部になっていることは、神さまがわたしの人生を導いてるのではないかという、壮大な視点に結びついていく。


もちろん、わたしはわたしの意思で生きてはいる。


けれども、その意思をも導いてる存在が神さまだとするなら、間違った道に導くとは思えないし、さみしくて、苦しくて、どうしようもなく迷う時も、『大丈夫ですよ、貴方を私はいつも見守っていますよ』という、目に見えないメッセージを受け取ることができる。


そのメッセージを愛というのだと思う。



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2019.4  カトリック世田谷教会