朱里日記

❁小さな自叙伝からはじまる魂の冒険記❁

家族

これについては、一記事ではおそらく全てを語ることは不可能だと思う。

それくらい、わたしは自分でこのテーマについて考え抜いてきたし、実体験を通しても、学びに学んだと思っているし、なんならこれから先の人生の一大テーマであるから。


思い入れが強すぎる。何から書いたらいいだろう。このテーマを語るからには、誰かの役にたってほしいという願いも込めずにはいられない 。


多くの人間が家族という小さな宇宙のなかに生まれ、長い時間をその宇宙中心に生きる。

前にも言ったように、わたしは、全ての人が自分で生まれる場所や、親を決めてこの世に生まれてきていると思っている。自分に必要な成長を遂げるため、はたまた、自分の目的を達成するため、あえて試練の多い環境を選ぶ者ほど、既に高尚な魂だと感じている。


これは、共通しているのか、いないのか、わからないんだけど、一旦忘れてまっさらな状態から始めて、自分で自分が決めてきた生き方を見つけ出していくのではないか?と考えたりする。本当のことはわからない。 でも、昔からわからないことに惹かれた。わからないことのなかに大事な何かがある気がしていた。すぐに理解できることはもうすでに経験済みで、新しい学びにはならないことを知っていたのかもしれない。


テーマは家族 


わたし自身、自分が選んだ家族に対して、特に思い入れはない。 非情かもしれないが事実。親戚などもってのほか。 なんの繋がりも感じたことは無い。 つまり、血縁というものにあまり意味は無いと思っている。 親の兄弟だからという理由で、親族とか言われても困る。 わたしが欲しかったのは、真の愛情だったけど、その人たちからは愛情をもらった覚えもなければ、池ちゃん(前記事を読んでください)からもらったうれしいお小遣い以上のお金を貰うことすらなかった。 親しみなどないのだ。 親姉兄に対しては、わたしが年の離れた末っ子という理由で、あなたはみんなに可愛がられてたと言われることは多かったが、それは、単純にわたしが小さくて可愛い存在だったから、わたしを可愛がった人は、わたしから愛をもらってたんだと思う。 自覚してあげた覚えはないが、そういうことだと思う。


この家族のなかで、無条件に愛された記憶はない。わたしはずっとひとりだった。 人並みにサバイバルの法則とやらで、子ども時代は生きていくために親に捨てられないように健気に愛されるための努力をした。 悪いことをやりたい気持ちを抑え込み、表面上いい子を演じていた気がする。 無償の愛を知らない(忘れてしまった)人たちを騙すのは簡単だった。 彼らは目に見えるものだけを信じているのだから。この感覚は正しいと思う。

 父の記事の最後で、わたしはずっと愛されていた。と述べた。愛されていたわたしは、ほんとうのわたしではなかったのかもしれない。


残念なことに、わたしは大事なことを何ひとつ思い出してない状態で、結婚出産を経験した。 子育てに苦しんだ理由は、わが子を無条件に愛したい自分がいるのに、無条件に愛された記憶がないため、やり方がわからなかったことにある。 ずいぶん間違えて、そのたびに自分を殺したいほど憎んで、笑うことが全くできないどうしようもない日々が続いた。

息子が小学3年生の頃に、愛したいように愛せない自分の苦しみを彼を抱きしめて正直に伝えたことがある。 わたしはそれまでの自分を省みて真摯に謝った。 その時彼はひとこと「笑ってて欲しい。」とわたしに言った。 

あれがスタートだった、と今はっきりわかる。 あの時わたしは、自分の意志で、生まれてから続いてきた無限ループを抜け出したのだ。それからスローペースだったけど、愛したいように愛せるようになった。 


別れた人もまた、わたしとは違う苦しみを抱えていた人で、彼ほど親族の業に巻き込まれて本来の自分を生きられない気の毒な人もいないのでは、と思うほど、根深いカルマに翻弄されていたが、どう生きたいかは自分で決めることができる。 それを教えてくれる子どもたちとの出会いだったのに、彼はそこから学ぼうとはしなかった。 彼らに生かされてる命だということに目を向けることをせず、ひたすら被害者の人生を選び続けて、挙句、いまだに子どもたちに愚痴を聞いてもらい続けているようだ。 自分があの子たちより上の存在だと思っているのだろう。 馬鹿か恥を知れ。  わたしはそんな輩とはもう一切関わらない。 彼には感謝して別れた。それ以上も以下もない。

わたしは、息子をわたしを成長させるために助けにきてくれた使者だと信じているし、娘は、わたしのような小者を上から目線で、お前も頑張ってんな!とすでにわたしが学ぶべきことなどとっくに学び終えてて、ただこの地球であそぶためにいらない摩擦の少なそうなとこを選んで生まれてきた猛者だと信じている。この考えは、自分が親として子どもに何かしてあげなくてはいけない、という強迫観念も消してくれた。


彼らの望みはわたしが笑っていることなのだ。

わたしがしあわせに生きている、それがいちばんの願いなのだ。現にそう言ってくれてるし、娘が誕生日にわたしにくれた手紙には、


『いつか、本当に自分をわかってくれて、愛してくれる人を見つけてください。そして、幸せに暮らしていってください。』


そう書いてあった。


それを叶えたいと思う。

それが彼らへの恩返しになるのだと思う。


わたしは、これから前のめりで自分から愛していける人たちを勝手に自分の家族にしたい。

一緒に笑ってあそべる仲間をつくりたい。 キャンプするように暮らす。 ひとり妄想旅行もおしまい。子どものころ好きだった家族ごっこでいいのだと思う。 役割はあっても、それにしばられて、笑えないのはナンセンス。 本気の家族ごっこは、家族という決められた枠を軽々と飛び越えて、大切な命を尊重し合う美しい世界を創り出すだろう。

家族から学ぶ時代は終わったのだ。

息子と娘はそれぞれ決めてきた人生をわたしよりずっとずっと早く歩き始めようとしている。 彼らのことはそっと見守りつづけるし、困ったら助けるし、愛し続けるだろう。無条件に愛してもらった恩はずっと忘れない。 


家族というテーマに対して、書きたいことがどれくらい書けただろう?文章構成がひどいことはわかってる。 でも、それがなんだ?わたしは作家でもなければ、何者でもないではないか。 ただ、書きたいことがあり、誰かを楽にしたい希望があり、やりたいことをやってるだけ。

 それを言い訳に、10伝えたいうちの3くらいしか伝えられなかった悔しさを抱き、今回はおしまい。


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愛そのもの👼