朱里日記

❁小さな自叙伝からはじまる魂の冒険記❁

やまなし

宮沢賢治 愛のうた を読み返す。

今年の春に、ある小さな出版社の集まるイベントで購入した本だ。内容は、宮沢賢治には恋人がいた―という推理から生まれた一冊の本に寄せられた証言が、推理が事実であったことを裏付けることになり、大幅に加筆修正され、改めて出版された本になる。

わたしはこのブログ内で何度か宮沢賢治ネタを記しているが、宮沢賢治の作品は昔から大好きだった。この本の著者も述べているが、賢治の作品は、その殆どが実際に起きた出来事に基づき創作されたもので、〝春と修羅〟の中の詩の一部は、当時世間に公表できなかった最愛の恋人への思いを綴ったものであったようだ。宮沢賢治は生涯、特定の女性と相思相愛の関係にならずに、貧しい農村の人々に心を痛め、農業に身を捧げた聖人のように語られてきたが、そのイメージは、その時代にとって都合のいいように作り上げられた偽りの姿であったという事実に、なぜかほっとした。


多くの人の心に響く作品の心臓部にはやはり愛が息づいているのだなぁ…とうれしくなる。


それは、ある人にとっては、


ただひとりの人へ綴る一片の詩であったり、ただひとりの人を想う一枚の絵であったり、ただひとりの人へ伝える手紙であったり、ただひとりの人へ届ける写真であったり、ただひとりの人へ向ける歌であったりする。


いつの時代も、大きな愛の中の小さな恋が世界を動かしてきた。恋には世界を翻すほどの熱量があるのだろう。


タイトルのやまなしは、賢治の生前に発表された数少ない童話のひとつであり、私のいちばん好きな賢治作品だ。このやまなしも、実は、彼の愛した最愛の恋人であったヤスとの恋のエピソードから生まれていると語られている。やまなしは、岩手地方ではヤマナスと発音され、このヤマナスのなかに、ヤスが入っているとの解釈だ。

作中に出てくる《クランボンは死んだよ、殺されたよ、それなら何故殺された》ここからは、恋が終わり、それは決して本意ではなく終わらされてしまったことへの失望、そして悲しいかな、終わらせたのは他でもない賢治自身であるということが読み取れる。


なんて、この本を読まなければ決して気づくことはなかっただろう。そして、その事実を知り、小学生だった自分が好きになった作品が、美しくも悲しい恋から生まれたお話だったことを知り、自分の感性に自信をもったのである。


よく、子どもの頃好きだったことやものを思い出すと自分が何を本当に好きかわかったり、得意なことが思い出せたり、そこに人生の重要なヒントがあるというようなことを目にする。その意味は、こどもは頭で考えずに、なんとなく好き、とか、なんとなく惹かれるといった感覚で動くことから、大人が90%以上使えていないと言われている無意識である潜在意識で世界を捉えていたと言えるのかもしれない。目に見えない世界とあそぶには、子ども心が大切なんだな、きっと。


子どもの頃好きだったこと、いっぱい思い出してみようと思う。そこには魔法をつかえるヒントも隠されているのかもしれない。



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―私の幻燈はこれでおしまひであります。