強く握り締めているものほど手放すと、空いたスペースに素晴らしいものが舞い込んでくるという、あれだ。
道理はわかる。
真実だとも思う。
気分よく手放した暁には、失いたくないと執着していたものが、違うかたちで舞い戻ってくる可能性すらある。
手放しの重要性。
いま一度、ここと向き合ってみたい。
遂に手放した。
何度そう思えど、手放したはずのものが、気づくとわたしのなかに在る。どうすればいいというのか。確かに手放したではないか。わたしは奇跡が起きることを信じている。だから大丈夫。恐れることはない。安心して手を放すんだ。
……何故だ。何故なくならない。
此処にある。どこにもいかない。
もしかしたら、わたしはずっと勘違いをしていたのかもしれない。
恋と愛は同じではないことを、ただ、忘れていただけなのかもしれない。
手放せない理由があったのだ。
なぜなら、わたしはわたしを未だ超えていないのだから。
周りに嗾けるだけ嗾しかけて、自分は傍観者を決め込んでいた。あたかも、その傍観者という役割を果たすことが自分の使命であるかのように振る舞って。
これは言い訳だ。
わたしは自己の表現を恐れていただけなのだ。どうしても逃れられない視線がいつも心にある。その視線を求めていたのは、その視線を必要としていたのは、他でもない、このわたしだった。その事実を直視する。手放せていなかった理由を知る。あの場所へ通い続けた本当の理由は、自分を出したかったからなのだ。そして、そんなわたしを見たいと望んでくれる人がいたのだ、ずっと。ぐちゃぐちゃになっても自分をさらけ出して、笑いながら泣き続けて生きてきたわたしを見届けてくれようと、愛を渡し続けてくれる人がいるのだ。
わたしはもう前へ進まなきゃいけない。いつまでもここにいるわけにはいかない。ゴールからの逆算でいったら、一刻の猶予もない。
出せ。
出し切れ。
一回それをやり切らないことには、進めないようになっていることを認めるのだ。
人生道場に入門したり、先陣斬ると豪語したのは自分だ。今までここで語ってきたことが、逃げ口上になってしまわぬように、現実を変えていくのは自分だ。
やれ。
お前ならできる。
死んでこい。
屍なら拾ってやる。
地球最後の日々🌏