朱里日記

❁小さな自叙伝からはじまる魂の冒険記❁

いよいよ夏も終盤。

昨日に引き続き、だいぶ暑さは和らいだ模様。昨夜の夕涼みが気持ち良かったこともあり、また、夕方外を歩く。

今日も行先は決めず、なんとなく気分にまかせて、進むことに。午後に一時降ったスコールの名残で、道端の草花の匂いが鮮やかに空気中に充満していた。深呼吸しながら、ゆっくり地面を踏みしめることを意識しながら歩く。大通り沿いの道は、会社帰りの人が多く、一本裏道に入ると、街灯も少なく、人影もまばらだった。なるべく頭の中を空っぽにして、体の動きに集中していた。なんとなく歩いてしまうと、頭の中のおしゃべりはエンドレスで、まるで壊れたテープのように流れ続けてしまう。

川沿いの道に出ると、ジョギングをしている人たちがちらほら出始める。それを見ていたら、ふと、

''走ってみたい!''

という気持ちが湧き上がってきた。

とは言え、普段走らないし、運動もあまりしないし、すぐ疲れて、脇腹も痛くなって歩くことになるだろうなぁ~…なんて、一瞬で否定的な想像が浮かぶ。


ほんとに人間て(わたしって)こうやって、やりたいことを否定して、やる前から諦めてきたのだな、ってことがよくわかる。その積み重ねが無気力な死んでるような自分をつくりだしていたということを認めざるを得ない気がした。


とりあえず、そういう今までの悪しき風習をたったいま、卒業すると決めよう。

そしてわたしは、頭の中の否定言葉はスルーしてとにかく走り出した。


すると、面白いことに走れる。

全然走れてる。


信じられないことに、わたしはそこから一定のペースを保ちながら、20分ほどノンストップで走り続けた。まったく、辛くも苦しくもなかった。不思議な感覚だった。そして、気持ちのいい疲れを味わえた。心と身体のバランスがとれた感じだ。


なんだ、こんな簡単なことだったのか。


まあ、もし仮に、脇腹が痛み出して、走れなかったとしても、別になんてことはない。何度も同じ失敗をしたところで、大した損になる訳でもない。


大事なことは、いまこうしたい!という自分の中心から湧き上がる意思を、過去のネガティブな記憶を元に、行動を押し留めるのではなく、今この瞬間の気持ちにどれだけ純粋に答えてあげられるか、ということだと思う。だから、大袈裟ではなく毎日生まれ変わるほどの純度の高さで生きなくては、と思うのだ。それは、生まれ変わる度に、悪いことを手放すと同時に、いいことも瞬時に手放すということになる。悪いことだけ手放して、いいことはそのまま残しておくことはできない。


よく、子どもの頃(大人になっても)砂浜で拾ってきた綺麗な貝殻なんかを、部屋に大事に飾っておいても、なぜか日に日に色褪せていくのと似ている。貝殻は砂浜でわたしが拾い上げた瞬間から、刻一刻と輝きを失っていっている。家に持ち帰り、部屋に飾った時にはもはや貝殻が放つエネルギーはほぼ消えているのだろう。

それは、わたし自身と同じことで、貝殻を拾った瞬間が気持ちが最高潮に達した時で、それをすぐに手放せないあまり(いいことは残しておきたい)執着という重く硬い負のエネルギーに覆われ、輝きを失っていくのだと思う。


ああ、いい気づきだ。


これに気づけたのだから、わたしはこれからどんなに美しい幸せな瞬間も、次の瞬間、パッと手放すことを選びたい。輝くエネルギーは、スクラップブッキングなどできないのだから。また新しい自分で、また新たな美しい幸せな瞬間を生み出せばいいことなのだ。


なんだか、話が全然違う方向へと勝手にひとり走り出してしまったが、最初から走る話題なのでよしとしよう。


ここ一週間ほど、あまり人と交流のない時間を過ごしていた。すると、わたしの中の大事なエネルギーがまるで循環していない。わたしの場合、やはり、人と交流することで命が生かされるという感覚がある。元気のない人がわたしと会ったら、途端に元気になる、元気にできる自信がある。

それと同時に、わたし自身も、誰かを元気にすることで、元気が拡大するのだと思う。人と会わない時間の中でその気持ちは強まった。命が生かされていないもどかしさの中で掴んだ真実。

どうやら、ひとり遊びではわたしは満足できない質らしい。

それがわかったので、9月は人に会いまくる月間にしよう!8月もあと10日あまり。


神経を研ぎ澄まして、目に見えない次元に浮かぶいい感じのものをキャッチしたいと思う。



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朧月明かり